「言い過ぎ 」の非難の主 = 本当のことを知っている?

 2024年4月11日、早朝5時過ぎ、空はほぼ一色に曇っていましたが、私の上空にだけ星が二つ出ていました。ただ、東北東あたりの空だけ、横にした錐体のように雲が裂けていて、狭く空が見えている、しかし、かなり明るくなっているせいか、ごく小さい星が一瞬見えたくらいでした。

 「言い過ぎた」と非難気味に仰っている方がおられます。どうぞ、あなたがご存知のことを詳しくお知らせ下さい、でなければ言える訳がないはずです。ヒッグズ氏への善い手向けにもなることでしょうから。

 電子ピアノで同じ和音を連打するかのような声で、ずっと話している方がおられました。つまり、何を仰っているかは、ほとんど聞き取れませんでした。

 「言え過ぎ」?「家好きlist」?、とも。

因地球・果地球

 「アダムとイブ」、「取って食べるな」とは、"拾って食べる(栗やマンゴー等)"が正解だったから。何が正しいか、何がよいのか、人間が間違わないように戒める話であると理解しています。そうすれば、万有引力ももっと早く発見されていたでしょう

 そして、事実として、人間が間違った・あるいは重大事態の場合に、間違った地球を因地球として別のパターンを辿る果地球が分岐・並存していく、ということが行われています。上の例では、パターン2 : 取って食べたが他者のせいにはしなかった、パターン3 : 熟して落ちた実を拾って食べた、それら全ての地球が比較されているのです。

 人間が天の者の分身であるからこそ(同一人物であっても、因地球と果地球では同じ意識であるわけではない、例えば、果地球の私はこの私の意識ではありません、私が双子で、もう一人の方のようなものです。分身とは、たとえれば、みな、天の者の子のような存在、親は子に責任を持たねばならない、は、正確ではありませんが、あくまでも天の者に責任が帰せられているということです)天の者たちの総意で可能であるのです。因地球と果地球の成り行きを比較することで、天の者が自己の責任をより納得することに寄与している訳です。

 宇宙は総太陽系、さらに、自宇宙・他宇宙、と、無数の地球が並存しているのです。

 

生まれ変わり

 私が真理を探究するようになったきっかけの一つは、子供の頃の体験が生まれ変わりを意味しているのでは、と感じていたことです。その体験のほとんどは小学校に上がる前のことなので、記憶は薄れるばかりなのですが、それは多分「夢」、何度も、とにかく怖い同じ「夢」を見たのです。

 部屋の中を歩き回りながらその夢を見ていたのではないか、ということもありましたし、部屋の中を飛遊しながらその夢の中にいた、ということが何度もあったのです。天井や壁にぶつかるんじゃないかくらいに部屋中を飛び回るのです。その飛ぶ体験を鮮明に語る人に20才頃出会ったことがあり、私もそうだったと感銘を受けたことがあります。後にテレビで、ドッペルゲンガーは脳のある部位を刺激すれば誰でも見る、みたいなことが説明されていて、私たちも何か似たような状況にあったのかなと思いました。考えてみれば、その頃は、おなかがすいてタバコの吸殻の葉っぱを食べたこともあったりして、そのときは実際に危ない状況だったかもしれません。病院に行くようなことはありませんでしたが。

 怖い「夢」とは、行く道も周りも石で造られたような場所を「そこに着けば死んでしまう」という恐怖の中、覚束ない足取りで歩いているのです。後に、それはギロチンへの道だったのではないか、と思い至った訳です。私の誕生日は7月15日、ある意味でギロチンの象徴である7月14日の次の日。

 母は、私を妊娠中、農作業の帰りに、雨で濡れた下り坂で滑って尻もちをついたのが原因だろう、と言いました。私は首にへその緒を巻いて生まれたのです。

 また、母は私を産む前後に、至近距離で夕陽のようなマット(matte)で静止している大きな「火の玉」を目撃しています。私が目撃した星にも、明るいのにマットで瞬かない動く(減光していって静止する小さな星になった)星がありました。

星下

 2024年4月5日、早朝5時頃、空はほぼ同じ色で全面的に曇っていましたが、私の上空だけに星が一つ輝いていました。薄い雲越しにしても不自然。

 何となく嬉しいのは、見放されてはいないと感じられるからでしょう。

 もちろん、テレパシーも沢山聞こえていますよ。人間から来ている分が多いように思われる聞こえ方です。ただ、すでに述べたように、はっきりとは聞こえないのが歯痒いです。

そして、天獄

 センサッにより空間が生成されても、全く物質が存在しなければ、センサッの力は完全に打ち消し合い、慣性空間のままですが、空球から物質が出された途端、貫き推し進む力は、結合・質量、重力、衝突、あらゆる・摩擦・きしみ・振動・引力・斥力、放射、超流動、等を生じさせるのは、それほど説明する必要はないでしょう。その超精密な「3Dプリンター」を使って、何日で宇宙は"完成"したでしょうか。

 ここからは、センサッを含め宇宙・人間と宇宙の全ての事象は、(私がいう)あの世以上の者の存在なしにはあり得ないのか、という話です。

 昔の、「ボックス」か何かに「ゴミ」を入れて放っておくと、ネズミ等が「発生」した、という話と同様に、空間(センサッも)・宇宙・人間は、いわば、自然発生した、という「無神教」は、空間・物質・人間等がなぜ存在しているのか等も、何一つ説明できない、逆に、純粋・ナイーブな信仰であると言えるでしょう。この立場の人には、この立場でありたい理由・動機がある、とも言えるでしょう。

 この宇宙や人間は「神」の存在なしにはあり得ないが、「神は死んだ」、という「神滅教」。「神」が介入しないかのようにも見えるかもしれないこの世を悲観する人が陥りやすい立場だと言えるのではないでしょうか。

 惑星の公転は、制御されていないとすれば、あまりにも奇跡的、というよりも、奇跡がこれほどありふれていていいのか、というくらい「非唯物論的」、つまり、「摂動論」は詭弁? 特に、海面を昇降させるほどの引力がある月という衛星を伴う地球という惑星が公転軌道に留まっているのは、ある人たちに対して冷笑的であるとさえ言えるでしょう。

 ただ、そのような天体の運行も自動制御であって、その後、「神」は死んだ、という主張もあり得るでしょう。「AIを発展させた後、人間は消滅した」と同様に、宇宙の自動制御や人間を完成させて、「神」は死んだ、という見方。

 AI後の人間消滅のパターンは、AIに人間を殺す方法を学習させた後、AIが自主的に人間を消滅させていった、というパターンが想定されると思います。では、どうすれば「神」は死ぬのでしょうか。人間による黙殺ですか。いずれにしろ、「神」が少ないほど消し易そうです。

 唯一神を信じたい気持ちは理解できますが、厳密に言うと、それは天における問題なのです。この世はあの世以上の者が複数いるからこそ設置されたのである、ということを、ここまで説明してきたのです。 

 既に述べたように、宇宙と人間が存在しているのは、人間を見極めるためなので、「神」は存在していないように振る舞うのは当然でした。

 特に、自然災害の際は、「神も仏も無い・亡い」と断じられたくなられるでしょう。ただ、本当に人間はやらなければならないことをやってきたでしょうか。

 あの世で天を訴えることができるような人間だけが天獄を免れることができる、ということです。

 

 

 

センサッ・空間

 センサッは、全点・全位置を全方向=4πステラジアンに貫き推し進む実体的力、と定義されます。

 立体角とは、球の表面に投射される錐体の頂をその球の中心点とするとき・投射されている形状は球の表面積の何%であるか、です。そして、空間=全立体角=4πステラジアン、つまり、球の全表面積=球の表面積100%=全方向のセンサッ、が空間の生成・存在を規定するわけです。

 注意しなければならないのは、センサッの全方向は放射とは異なるということです。既に述べたとおり、放射とは、球状である場合でも、発した点から距離が大きくなるほど物質の密度が小さくなっていく事象です。これに対し、センサッの全方向は、無限小の球から無限大の球まで、常に全表面積=表面積100%の球として進んでいく、すなわち、密度は小さくならないのです。

 センサッが存在すれば一点からであっても全空間が生じるわけですが、現実のセンサッは、どこが始点というわけでもなく、全点・全位置を貫き推し進んでいて、これが、全ての物理的事象を生じさせているのです。

 ベクトルは、理念的なものなので、方向と大きさを持っていても、ゼロベクトルは点や線と同じく「無」とみなされます。その点、センサッは実体的な力ですから、センサッの力が打ち消し合って、センサッの力が完全に均衡している場合でも、力がゼロというだけであり、センサッ自体が消え去る訳ではありません。それは、センサッが存在するということは、空間をどんなに微視していってもセンサッの空球が消え去ることはない、ということです。

 以上がセンサッによる空間生成の仕組みです。

 この消え去ることのないセンサッの空球を、座標の原点などの点・位置O(オー)と呼べ、センサッの力が完全に打ち消し合って完全に均衡する(慣性や超伝導をもたらす)のを0(ゼロ)と呼べます。センサッによる空間は、O(オー)、0(ゼロ)が属性であるということです。

 

 

 

ことわっておきたいと存じます

 29.3.2024   「議論が好きな人"大嫌い"」って言っています。一緒にいるときなどにそうなるのを警戒している方とかがいるのでしょうか。ただ、議論をXXにしている方等に対しては失礼なことなので、私は、議論は好きではありませんが、ちゃんと議論したいと思っていることを表明しておきます。議論から逃げたいわけではないし、無駄に議論を吹っかけるようなことは、私の趣味ではない、ということです。

 もし、「正統派」や別のご持論から、フラストレーション等を抱えておられる方がいらっしゃるならば、どうか、それは私も同じような状態であることをご理解いただいて、センサッを最後までご確認いただけたらと存じます。